差別をすることに相関する事実

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 つい先日、米ジョージア州ブランズウィックで今年2月、ジョギングをしていた黒人男性のアーベリーさん(25)が白人の親子に射殺されるという悲惨な事件が起きた。その後、被告の一人はアーベリーさんを撃った後に人種差別的な発言をしていたことが明らかになったそうだ。

 アメリカ各地では、武器を所持していなかった黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官に首を圧迫されて死亡した事件を受け、抗議デモが起きている。その様子はTwitter上でも回っていて、そこにはなんとも恐ろしい現実が広がっていた。その中でも特徴的だった映像を乗っけておこう。

mobile.twitter.com

1人の黒人男性が悲痛を上げている様子が写っている

前半は一番年上の黒人男性に向かって必死に訴えかけている。黒人差別によるデモに関して、社会の間違った認識に関して、その後、青年の男性に向けてこの過ちは繰り返される、またデモは起きてしまう、だからその時はこの場所でお前が同じことを訴えるんだと。必ず繰り返されるこのやるせない現状を力強く重い言葉で訴えかけている。このツイートは世界中に伝わり、世界の人々の胸を打ち、日本国内でもたくさんの人を考えさせるきっかけになっていることだろう。

 

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 この現状はそもそも差別という社会問題におけるものだが、少し差別について考えてみよう。

差別には黒人に対するものだけでなく様々なものがある。LGBT、自国以外の国、障害者、民族、性別、個人の社会的カテゴリーによって差別はどこにでも生まれるものだ。

ちなみに言うと、私自身は差別に関して全くもって理解がない人間である。

差別はいけないことだから、モラルがないからしないように心がけようとしてのものではなく、単純に理解がないのである。これは小さい時からそうだった。テレビなどで取り上げられる差別問題、子供ながら全くそれらに関して理解ができなかった私は、小学生の頃よく差別や偏見に関しての絵本を読んでいた。読んだ結果は、客観的な事物としての理解はできた。しかし、主観的には理解はできないししなくて良いと思った。それで言うと、偏見を持つ人は100%頭が悪いと断言しよう。いやこれ自体が偏見だと、そうではない。偏見はなんの論理性もなく客観性もなく感情論や独自の思考での決めつけのことである。これに関しては完全に論理での断言である。

これの論理を説明するのは少しばかばかしいとも思っているのだが、シンプルに考えると、偏見を持つ理由に関して、感情論などの単語が出てきているが、もうそれでピンときて欲しいが、感情論で物事を判断するのは頭がいいとは絶対に言えないことだ。感情論とは、人や物事を、その判断者が好きか嫌いか、かっこいいかカッコ悪いか、かわいいか可愛くないか、どういったものを感じるかによって判断をすることだが、そのものがどういったものをもたらすかは人によって異なり、例えばりんごが好きな人もいれば嫌いな人もいる。となると、好きな人にとってのリンゴと嫌いな人にとってのリンゴは相反する存在となる。判断も真逆になる。その判断にはなんの確証性もなければ価値もないことが理解できるだろう。その人自体を判断するときの材料にしかならないのだ。

そして私が感じるのは、差別は自分の世界を自分で狭めているもったいない行為なのになぜそれを選んでしまうのか。これも理解に苦しむ理由の一つなのだが、要するに差別対象とはコミュニケーションを取らない、自分のコミュニティから除外する。しかしそうすることによって自分にとって有益であるはずの情報、知識を得る機会が減ることになる。私自身、人とコミュニケーションをとることが一番の情報を得る方法だと実感している。豆知識や政治に関してだけのことではなく、人間の心理性が理解でき、社会性などが身に付く。人と話すことは有益なことでしかないのだ。その選択肢を自分から消すことはこれも頭のいいこととは言えないだろう。

私自身実際偏見はなくならないと思っているし、専門家でもなくなることはあまり期待できないといった発言が多いが、是非今一度考えて欲しい、シンプルに、論理的に、プライド、敵を作る癖は捨てよう。有益か有益じゃないか、頭がいいか、頭の悪いことなのか、この記事を読んでくれた誰かしらの心に届いて欲しい。ただそれだけである。